富木師範の御命日に寄せて
昭道館長 成山哲郎
2025年12月25日
はじめに
昭和54年12月25日午後4時10分、私の恩師富木謙治師範が東京・荻窪病院にて79歳9か月10日の生涯を終えられました。今年で46回目の御命日を迎えるにあたり、私が富木師範から直接お伺いしたお話、あるいは私自身の体験に基づき、富木師範と合気会との関わりを振り返りつつ、我々の合気道の名称についての考え方をお伝えいたします。
合気会における富木師範
昭和44年4月26日、合気道開祖植芝盛平翁が享年86歳で逝去されました。
同年、合気会の奥村繁信先生が富木師範を訪ねてこられました。奥村先生は満州建国大学の第二期生に当たり、富木師範とは師弟関係でした。富木師範はご不在だったため、大庭英雄師範が応対されました。その後、早稲田大学柔道場の師範室で富木師範、大庭師範、私の3人でお茶を飲んでいた時のことです。その時に話題に上がったのですが、奥村先生から次のようなお話があったそうです。合気会二代道主植芝吉祥丸先生の呼び方について、「坊ちゃん」という呼び方はしないでほしい。「道主」と呼んでほしいと要請があったという事でした。
富木師範が少し考えられた後に「でもやっぱり坊ちゃんだなあ」と話されていたことが印象的でした。吉祥丸先生が幼少の頃、富木師範は養育係のような立場でお世話をされていたので、「坊ちゃん」という呼び方に愛着を持たれていたのかもしれません。
大同団結の試み
昭和45年初夏、植芝吉祥丸道主と藤田昌武先生が来阪され、阿倍野区昭和町「ロダン」ビルの和食レストランにて富木師範、小林裕和師範、内山雅晴昭道館理事長と会談されました。その中で、富木師範がご自身の弟子に対して発行されていた段位を合気会の段位に統合する代わりに、富木師範が進めている合気道競技の内容を合気道の一部として認めるという条件で合意がなされました。ところがその後数年たって、合気会の高段者会議の席上で、当時の師範部中枢の方がこの件に強く反発され、吉祥丸道主と小林師範は苦境に立たされることになります。「我々は富木先生からやり方を習わないといけないのか。それは困る。」と言うのが先生方の言い分だったようです。結局この話は実現せずに終わってしまいました。
昭和45年8月27日、大阪万博お祭り広場特設会場にて第1回日本武道祭が開催されました。笹川良一大会会長の下、空手道本部派糸東流の林輝男先生が大会委員長を務められ、小林裕和師範ら数名が副委員長を務められました。柔道、剣道、空手道に並んで合気道も出場しましたが、この時は合気会のみの参加となりました。これを受けて、小林師範より、次回は合気会以外の合気道団体にも出場してもらうべきとの申し入れがなされました。
昭和47年11月24日~26日にかけて、第2回日本武道祭が日本武道館にて開催されました。小林師範の申し入れが実り、合気会に加えて、富木謙治門下、塩田剛三(養神館館長)門下の出場が叶いました。我々も合気道乱取り法のデモンストレーションを披露しましたが、その時突如「ただ今行っているやり方は当会では認めておりません。」と場内アナウンスが流れました。我々にとっては極めて心外なことでした。後に小林師範が吉祥丸道主にその時のことを尋ねると「あれは僕じゃないよ。〇〇さんがやらせたんだよ。」との答えが返って来たそうです。ちなみに私は富木門下としての出場に加えて、小林師範の代理としての出場予定があったのですが、合気会の方から代理出場は認められないという通告があり、こちらとしてもそれで簡単に引き下がるわけにはいかないので、先方と色々とやり取りをさせていただきました。その時対応いただいたのが藤田昌武先生でした。その後しばらくして藤田先生から一通の封書が届きました。その中には、武道祭参加のお礼状に添えて、私が模範乱取り試合の中で施技した入り身投げ(相構え当て)、下段当て、隅落としを抜群のシャッターチャンスで見事に捉えた3枚の写真が同封されていました。写真の裏には横浜市内の某写真館の屋号と、佐藤カメラマンの名前がゴム印で押されていました。さすがはプロの技、我々素人が撮るような写真とは全然出来が違うものだと感心しました。その写真は以降に作成したテキストやポスター等の挿入写真として大いに活用させていただいております。
そのまた後ですが、小林師範が吉祥丸道主に年末の挨拶に行かれる際に同行させていただいたことがありました。小林師範は合気会と富木師範や塩田師範との大同団結の必要性についてご意見を述べられました。それに対して道主は「私は立場上できないんだよ。小林さん、あなたがしっかりやってくれなきゃ。」と答えられていました。