昭和54年12月24日クリスマスイブの夜のことである。我が師富木先生は東京の荻窪病院で闘病生活にあった。近くの教会から病院の前庭に 訪れた聖歌隊の賛美歌を聞きながら「道場の方はどうかね。」と尋ねられた師範に「はい、皆な頑張っております。」と答えたのが師範と交わした最後の言葉と なった。その夜、容態が急変し、同時に意識もなくなり、翌25日午後4時10分、79歳と9ケ月の生涯を閉じることになる。告別式の時に頂点に達したその 時の気持ちは言葉で言い尽くせるものではない。溢れる涙を抑えることは出来なかった。
本稿では恩師の筆者への訓戒を紹介した。そこには筆者を通して、師が門下生全員に語ろうとした豊かな内容があると思うからである。この拙い文章が道兄諸氏のお役にたてれば幸いである。
出会い
師範を語るにあたり、恐縮ではあるが、簡単に自己紹介をさせて戴きたい。師範が秋田県角館町に生まれ、郷土をこよなく愛したことは多くの人に知られている。私の故郷も師範と同じ東北にある。
俳聖松尾芭蕉が書き記した「奥の細道」の中の名句にもあげられる「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 の舞台として登場する山形市の山寺である。 この地は宝珠山立石寺として天台宗の三代座主であった慈覚大師(円仁) によって比叡山延暦寺の別院として開かれた。 平泉の中尊寺と並ぶ東北の二大本山 とも言われ、昔からその門前町であった。
私はこの地で父八郎と母チヨの間に二人兄弟の長男として生まれた。昭和22年11月21日のことである。小・中学校とも地元で学び、高校は 山形市内の県立山形中央高等学校へ進んだ。高校では柔道部に籍を置き、昭和39年秋に行われたオリンピック東京大会の柔道競技をテレビで見ながらオリン ピック選手に憧れたものである。
ある夏の合宿練習に国士舘大学の柔道部員が指導に来てくれた。高校生の我々がどのように頑張っても全く歯が立たず、その強さに驚いたものである。しかしその指導ぶりは懇切丁寧でとても優しく、頼りになる兄貴と言った感じであった。
こうして41年春、国士舘大学法学部に入学した。当初は柔道部に入るという目的を持っていたが、結局実現しなかった。と言うのは入学と同時 に入った学生寮の先輩の勧めで合気道部に入部することになったからである。初めて富木先生にお目にかかったのは、部の昇段審査会に来られた時だった。瞼は 半眼に開いた感じで奥に光る眼光が鋭く、とても怖い先生と言うのが第一印象だった。この武人との出会いが私の人生を結果として規定することになる
武道学会設立への情熱
昭和43年のある秋の日、私の脳裏に富木師範が初めて強烈な印象として残る出来事があった。「成山君、明日時間が取れないかね、ちょっと手 伝って欲しいのだが。」 当時私は、丁度合気道部の主将に選ばれて間もなくのことであり、師範の突然の呼び出しに多少の驚きと不安を感じながら、しかし気 持ちのどこかには余裕があった。当然私以外にも早稲田大学や成城大学の学生達も呼ばれているものと安心感があり、軽い気持ちでお引き受けしたのである。
そして当日、お供をする事になった九段会館は既に現在はないが日本武道館に向かう途中の地下鉄の九段下を少し上がった所にあり、その外観は今にも崩れ落ちそうだった。会場に着きしばらく辺りを見回したが、自分以外には誰も見当たらず何となく落ち着かない。
驚いた事には、日本武道界の実力者と言われる様な錚々たる先生方が大勢集まっておられ、何やら異様な雰囲気であった。
しばらくすると稽古着に着替えられた富木師範がお見えになり、演武をやるから受けを取るように言われ、何が何んだか分からないままに師範の 前に立つ。リハーサルも何もなしのぶっつけ本番である。考える間もなく演武が始まり、さらに驚かされたのは凄まじいまでの師範の気迫であった。演武の内容 は柔道と合気道の技を比較しながら行うものであるが、その技は厳しく、小手返しなどは技を掛けると同時に持っている手を離してしまうと言うような烈しいも のであった。また床は畳ではなく数枚のマットを並べたような簡単なもので、幾度となく頭を打ったり肩から落ちたりと、散々な目に会った。幾らか柔道や大学 の合気道の稽古で慣れているとは言っても、この時の師範の厳しさとは比べものにならなかった。
これは大分後で分かった事であるが、この集まりは後に師範が副会長として活躍される、日本武道学会の発足のための設立準備委員会であった。学会に対する師範の意気込みの程を知ることが出来る。