昭和五年には嘉納治五郎師範が植芝盛平先生の道場を訪ね、植芝先生の技を絶賛されました。富木師範によると、「これぞ私が理想とする柔道だ」とおっしゃったとのことです。そのすぐ後に、嘉納師範は植芝先生の技術を学ばせるべく門人二人を植芝道場に派遣されました。
昭和十一年、富木師範は満州に渡る前のご挨拶に鷹崎正見氏とともに講道館館長室を訪ねられます。その時、嘉納師範は「富木君、植芝さんのところで君がやっているような技が必要なんだ。昔の柔術というのは皆、植芝さんの技と同じようなことをやるのだ。しかしあれをどういう風に練習させるかが問題なのだ。難しいんだ。」と述べられたのだと言います。それに対して富木師範は「先生の柔道原理をもってすれば不可能なことはないと思います」と答えられたそうです。後年「それからこれが私の一生の仕事になったんだ」と述懐されました。
昭和十六年夏、南郷次郎講道館二代館長は、打突蹴や武器の技に対応するための体捌きや技の運用を課題とした「離隔態勢に於ける技の研究委員会」を招集されました。委員長の村上邦夫先生をはじめとして、当時の講道館の重鎮の先生方が列席されました。その中には前述した尾形源治先生もおられたということです。研究会は以後昭和十九年まで四回にわたって行われることになります。富木師範は合気道から学んだ内容を盛り込み、ご自身の研究を発表されました。ある回では、委員の前で剣道の先生と対決させられ、本気の剣の打ち込みに対して組み付いて技を掛けることが出来るかを実演させられたということです。後に語られたところによると「手元に入れたのは五回のうち二回くらいかな。入ってしまえば我々の独壇場だよ」とのことでした。

終戦後、三年余りのシベリア抑留を経て帰国した富木師範は、GHQによって活動を制限されていた講道館柔道の復興に尽力されます。その後、部長兼師範を務められていた早稲田大学柔道部(後に合気道が教科として採用され、合気道部が創設される)を拠点に、合気道競技についての試行錯誤を重ねられます。この間に『合気道入門』(昭和三十三年)『新合気道テキスト』(昭和三十九年)を著されています。やがて成城大学、国士舘大学にも合気道部が誕生すると、在京3大学による対抗戦が始まります。ここからが、私が直接見聞きし体験した事柄になります。
昭和四十二年七月、昭和土地建物株式会社社長内山雅晴氏の支援を得て、富木師範の最初の合気道研究専用道場である「昭道館」が設立されました。この道場は社屋の一角を利用してつくられ、二十四畳の広さでした。内山順吉先生が専任指導者を務められ、著名な柔道家である浜野正平先生に相談役を引き受けて頂いたとのことです。浜野先生は富木師範と同日(昭和三年一月十一日講道館鏡開きの日)に五段に昇段されるなど、かねてから富木師範とご縁があり、当時は大阪にて「柔道場ニュージャパン」を主宰されていました。昭道館初代理事長内山雅晴氏によれば、浜野先生は「新国劇を立ち上げた澤正(澤田正二郎)が関西で旗揚げして全国に広まった一例もある」と言って富木師範に関西からの「合気道競技」普及を勧められたそうです。その後、富木師範からの要請に内山理事長が応えられる形で、富木師範の中央道場として七十六畳の新たな昭道館建設が進められることになります。