成山哲郎 2025年3月15日
私の恩師、富木謙治師範は明治三十三年三月十五日、秋田県仙北郡角館町に生を受けられました。以って本年令和七年は御生誕一二五周年にあたります。この記念すべき年を迎えるに際して、生涯にわたる師範と柔道とのかかわり、そして昭道館合気道との関係について、簡単にご紹介させていただきたいと思います。
私が大学を卒業後、昭道館の専任指導員として着任して二、三年が経った頃のことです。当時私は大阪外国語大学合気道部の指導を担当しており、毎週上本町六丁目のキャンパスに通っていました。近鉄上本町駅を降りて、外大に向かう道すがら、時に古本屋などに立ち寄っては武道関係の本などを眺めていたものでした。そんなある日、古本屋「天牛書店」で一冊の古びた本が目に留まりました。タイトルは『昭和天覧試合』。昭和四年五月に行われた第一回天覧武道大会の模様を詳細に記録した冊子でした。構成は剣道と柔道にわかれ、その中の柔道府県選士の部に若き日の富木師範の試合での活躍が描かれていました。また、私の郷里山形県の尾形源治先生や、あの木村政彦先生の師匠として有名な牛島辰熊先生と言った高名な柔道家も登場し、とても興味深いものでした。

尾形先生はこの天覧試合では、指定選士の部で準々決勝まで進まれ、相手との接触で顔面を負傷され、流血の中、包帯を巻いて試合を続けられましたが、無念の敗退となりました。血染めの天覧試合として有名です。翌年に行われた第一回全日本柔道選士権大会では成年前期の部に於いて見事優勝を飾られました。一方牛島先生は指定選士の部で決勝戦まで進まれ栗原民雄先生に惜敗されました。
私は尾形先生とは二度お会いしたことがあります。高校時代、私は柔道部に所属していたのですが、その昇段審査試合の席に尾形先生がお見えになっておられ、顧問を通じてお褒めの言葉を頂いたのです。後年、富木師範にこの話をすると、お二人は旧知の間柄だったので、尾形先生に挨拶に行ってきなさいと言うことになり、故郷山形に里帰りした際に土産物を持って尾形先生の櫻武会道場を訪ねました。直々に「君が富木君のお弟子さんかね。頑張りたまえ」とのお言葉を頂いたことが思い出に残っています。
また牛島先生の方は一度だけ国士舘大の世田谷キャンパスでお見掛けしたことがあります。私は大学四年生の頃、富木師範の体育学部での講義「武道論」を聴講していたのですが、講義終わりに富木師範のお供をして世田谷キャンパス内を歩いていた際、師範が「成山君、あの方を知ってるかね。彼が牛島先生だよ」と教えて下さったのでした。牛島先生は銀髪で眼光の鋭い風貌で、当時は六十代半ばになっておられました。後から柔道部の先生から伺ったところによると、「今でも一、二年生の二、三段までだったら負けちゃうよ」と言われるほどの実力だったようです。牛島先生は過去に合気道の植芝盛平先生に挑戦しようとされた事もあったそうです。植芝先生は相手にせず、当時満州におられた富木師範宛に「お前のところにも(牛島氏が)挑戦に行くだろうから、決して試合を受けないように」との手紙を送られたそうです。後年富木師範はその時のことを振り返り「もとより私は試合をする気はない。お互い話し合えばいいじゃないか」と語られていました。
そのようなわけで偶然見つけたこの貴重な冊子はかなり高額だったため、なかなか手が出せず、この道を通るたびに立ち読みをしていたのですが、ついに決意して購入し、早速富木師範にお見せしたのです。富木師範は額を叩きながら「この大将はこうしてすぐ私の旧悪を暴露するんだから」と笑顔で冗談を言われました。そこには内山雅晴昭道館理事長も同席されており、取引先の昭和印刷の社長に依頼して、今にもバラバラになりそうなほどボロボロだった冊子を綺麗に装丁しなおしてくれたのです。