師範の満足
五二年三月二一日に、第一回全国社会人合気道競技大会が大阪城公園内にある大阪市立修道館に於いて昭道館創立一周年記念大会として開催され た。師範は全国から集まった多くの懐かしい顔触れに、嬉しそうに目を細められていた。特に師範の古くからの友人の一人である柔道の鯨岡喬先生(九段)がお 見えになり、お隣でとても嬉しそうに歓談されながら、師範の説明を終始熱心に聞いておられ、大会最後の閉会式までご覧になっていた。
この時の師範の挨拶の一文には次のようにある。「本大会の使命は、日本伝統の柔術の優れた『わざ』を、今日の新しい練習法で、広く普及発展させることにあります。古流柔術の『わざ』は多種多様ですから、柔道競技だけでは十分に生かされない半面があります。
離れた相手の斬突を防御しながら『倒し』て『抑え』るために工夫された当身技と関節技とがあります。合気道競技は、これらの『わざ』を、乱取から試合にまですすめて、十分に練習します。」
大会終了後宿舎に着いた師範は、本当に心から嬉しそうに「今日は鯨岡先生に褒められたよ。『よく、あそこまでやったね』とね。」と語られ た。私は鯨岡先生を詳しくは存じ上げなかったが、師範に伺ったところによれば、先生は東京高等師範学校のご出身で柔道の嘉納冶五郎師範の愛弟子の一人で、 とても柔らかい素晴らしい柔道をやられたそうである。その先生に褒められた事が、師範にとってはきっと嘉納先生にでも褒められている様な気持ちに成られた のではないかと私には思えてならない。私はこんなにも喜んで下さる師範を見て、大会開催までの様々な苦労や疲れが淡雪のように溶けて行く思いであった。
東先生をめぐって
五四年八月、師範からの電話が入った。「今度、ニューヨークの東先生ご夫妻が日本に見えられるので手伝ってくれないかね。東先生は君と同じ国士舘の卒業生だから是非会っておいた方が良いよ。
ところで君の受けには成城の柳君を呼んであるから彼を使ってくれたまえ。」
しかしその時はなぜ私の受けが柳崇氏なのか、全く想像もつかなかった。師範の受けを私が取れば済むことで、私の受けは不必要に思えた。そし て当日になり、早速、早朝の新幹線で上京し、指定された国士舘の世田谷校舎にあった合気道場に急いだ。道場には既に稽古着に着替えられた東先生ご夫妻と、 ワイシャツ姿で腕捲りをした師範がお待ちであった。
今にして思えば、先月に秋田で行われた全国講習会での精力的な御指導によるお疲れが残り、よほど体調が悪かったのではと思えてならない。し かし、いつもの事ながら「遠来の御客」をとても大事にされる師範のお心は誰にでも分け隔てなく注がれ、ご自身が休むことを許さなかった。
私が東先生とお会いするのはこの時が初めてであった。東信義先生は昭和三五年より国士舘大学の教員として柔道部のコーチをお勤めの折に富木 先生から指導を受け、その後交換教授としてアメリカに赴任された。アメリカでは昭和五一年に米国富木合気道連盟を設立し、競技合気道の普及発展に貢献され ている。現在はニューヨーク州立大学にて体育教科として合気道を指導されている。
師範はよく柔道と合気道の間合いについて我々に話をされた。
「柔道は相手に足腰が届く所でやるから足払いや跳腰が掛かり、合気道は足腰の届かないところで掛ける技である。」「柔道の四・五段の人とやって、足腰の届く所におったらとても立っている暇がないよ。」と言うように事ある毎に柔道の有効性を我々に解かれた。
そして「柔道で十分に足腰を鍛えたものが我々の合気道をやってくれれば大変に素晴らしい事である。」とも述べられたものである。
この事からしても東先生や渡辺先生(日本大学の柔道部に在籍し昭和三五年卒業、翌年三六年に柔道と合気道の指導者として渡米する)に対する 期待も少なくなかったものと思われる。以前から東先生のお名前だけは、師範や大庭先生から何度か伺っており、もっと大柄の厳格な先生を想像していた。しか し実際お会いした先生は背格好も私と余り違わず、とても優しそうなので驚いた。そして、いつかは海外で教えて見たいと夢見ている自分にとって、同窓の大先 輩の存在が大変に心強く感じられたものである。
そして、この時初めて柳崇氏が師範の甥であることを知った。
私の受けを気持ち良く引き受けて下さった同氏は卒業後も社会人大会等で大活躍され、現在は国士舘大学合気道部のコーチを引き受けていただいている。