富木謙治師範の教え 技と心

台湾旅行の思い出

四八年十二月十二日より十八日までの一週間、富木師範を団長として関東と関西の学生を選抜し、中華民国(台湾)へ海外遠征を行った。遠征で は連日、各都市の警察学校や軍隊等でデモンストレーンョンを行った。何処に行っても?IP並の歓迎を受けたが、中でも当時中華民国の陸・海・空・三軍司令 官であった蒋偉国将軍が主催して下さった歓迎会は思い出深い。

師範が自ら筆を奮った大きな朱竹の書が将軍に贈られ、将軍が大変喜んでおられたことに、師範も心から満足そうであった。

また旧「満州国」建国大学の教え子の一人で、現在は同国の実業界で活躍されている李水清氏や、国際的な柔道家で富木先生の人間性とその生き 方に少なからず心酔していた林永杰氏等にお会いになった時の師範は本当に嬉しそうに表情を崩され、満足そうであった。珍しくスケジユールが何もなく自由時 間の日のことである。宿舎に林氏が師範を尋ねて来られた。その時の林氏は体調がお悪い中をわざわざおいで下さったのであった。林氏は師範に是非好物の鰻の 蒲焼を御馳走したいとおっしゃり、街へ案内して下さった。日本の観光客など誰も足を踏み入れた事のないような路地の奥にあり、また、とてもお世辞にも奇麗 などとは言えない所であった。しかし目の前に出された鰻の蒲焼の旨さは抜群で師範と一緒に堪能させて戴く幸運に感謝したほどである。師範は別れ際に「どう か一日も早く体を治し、また元気に頑張って下さい。」と慈愛に満ちた眼差しで林氏にお声を掛けられたのが印象的であった。

師範の決断

五十年夏、大阪に来て小林先生の許でお世話に成って六年目を迎え、ようやく富木師範の値打ちと偉大さが解り始めて来た頃、自分自身の中にも様々な矛盾が生じ、悶々とした葛藤の日々が続いた。

その原因の一つは、植芝先生から継続されている従来の形稽古と、富木師範によって創案された乱取競技法の稽古に於ける、受身・構え・移動等の基本動作の違いから来る指導者としての悩みである。どちらも真面目にきっちり取り組もうとすればするほど矛盾が広がって行った。

どこまで妥協すれば良いのか。しない方が良いのか。すべきではないのか。もし仮に妥協してしまえば、その結果として乱取から試合へと進めた 場合には必ず安全性に問題が残り、重大事故へとつながる危険性がある.これでは正に、和風建築の基礎に最新式の超高層ビルを建てようとする様な物ではない だろうか。また昔から「三つ児の魂百まで」と言われる様に最初に身についた癖はなかなか直らないものであり、もしそれらを修正する苦労をする位ならもっと 別の方向で積極的に活用する事の方がより有意義ではないだろうか。 また、やはり接ぎ木ではなく生え抜きの純血種を作り出す事が不可欠ではないか。師範の 来阪の折りに、このような内容を多少興奮ぎみに話す私を、いつも頷きながら黙って聞いて帰られる師範であった。

そんなある日、七月十一日付けで一通の手紙が届いた。その一文の中に「来年からは是非、昭道館を中央道場として東京、福岡からも集めて定期 的に研修会が開かれるように昭道館建設のことをお願いしたいと思っております。内山社長さんにも別便でお願いしました。また小林師範にも今後大いに手をつ ないでご協力を願うようにお願いしました。」とあった。

師範の要望は内山雅晴氏(日本合気道協会副会長)によって応えられることになる。翌年の昭和五一年三月二八日に師範の中央道場として約八十畳の昭道館が完成した。師範は当日のご挨拶の中で昭道館の命名について次のように述べている。

「このたび、本道場を昭道館と命名したのでありますが、申し上ぐるまでもなく、現代の元号昭和に因んだのであります。昭和とは、書経尭典の 一句『百性昭明、協和万邦』によったのでありますが、本道場は、まさに天の時、地の利、そして人の和の一致によって、大きく第一歩をふみ出すことになった のであります。」

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